

素盞嗚之尊
神功皇后
御祭神
御社紋

御利益
国家安泰 邪悪災厄除け
病魔平癒 学問上達 縁結び
商売繁盛 交通安全 子供守護
大阪府豊中市に鎮座する椋橋総社は、素盞嗚之尊(スサノオノミコト)・神功皇后を主祭神とし、鯉伝説が古くから知られています。人々の「心の拠り所」として長い時を経た今も、受け継がれてきた信仰の心を持つ多くの方々が安らぎを求めて今日も手を合わせています。
由緒
当神社は古来より東西椋橋荘の中央である荘本(庄本)に鎮座し、同荘の総産土神で、椋橋総社又は椋橋荘神崎松原の杜とも称する。
遠き神代の御時、素盞嗚之尊が高天原より鯉に乗り神前(神崎)の水門を経て当荘に御降臨なされたことにより、崇神七年十一月椋橋部連の祖、伊香我色乎命が斎い定め祀ったと伝えられている。
椋橋荘は正史にも明らかな地で、椋橋部連とその部曲民の住む土地であった。
この荘の区域は猪名川を境にして東西に別れ、東椋橋荘が石蓮寺、寺内、浜、長嶋、三津屋、野田、牛立、菰江、上津島、嶋田、今在家、洲到止、荘本(庄本)、島江、以上十四か村と西椋橋荘が高田、神崎、戸の内、椎堂、穴太、富田、額田、法界寺、高畑、善法寺、以上十か村と東西合わせて二十四か村からなっていた。
又、当社は昔、神功皇后が新羅へご出発の時、神々をこの神庭に集め、幸いをお祈りになったという霊験著しい古社である。
かくして朝廷の御崇敬も一方ならず、天文八年四月、御奈良天皇の勅願所と定められ東椋橋荘を社領として加えられた。また、武門の崇敬もとりわけて深く、明徳二年七月、藤原秀安は金鼓を寄進し、天正年間、池田筑後守は嫡子多聞丸誕生のため、武運長久を祈り、獅子頭を寄進した。獅子頭は社宝となっている。その他の社宝には元和六年九月天下一長久の作の神鏡がある。
神庭には鯉塚、鯉池がある。鯉塚は大神がお乗りになった鯉がこの地まで来て力尽きて死んだ。ということで作られた塚である。
往時には社家多く社家町をなし、今も付近にその遺跡を存じる。世の推移に従い、氏地の中には別の祠を建て、産土神として祀るところも出て、加えて戦国時代には付近一帯兵乱続き、社前も次第に衰退し、天正六年織田信長の荒木村重討伐の折の兵火により社殿、宝物、古文書等ほとんどを焼失した。同九年、仮殿にて神霊を鎮座し、慶長四年六月十四日、社殿を再建したが、旧時の如くに復することが出来ず、天正の頃まで氏地であった東長島も別に祠を建て、氏地は庄本、戸の内、高田、神崎の四か村となり、江戸中期(文化五年)には、高田、神崎も一村限りの祠を建て、その後戸の内村も祠を建て氏地は今の如くになった。
大正五年八月、常夜灯の倒壊によって火災を起こし、本殿、拝殿等を焼失した。現在のご社殿はその後再建されたものである。
末社出世菊天満宮は後鳥羽上皇の寵姫亀菊、後の伊賀の局の信仰が厚かった天満宮をこの地に勧請し、お祀したものである。鎌倉時代、当時椋橋荘は亀菊の所有地で、幕府地頭との間で紛争を生じ、1221年に起こった承久の乱の発端の場所として知られている。
境内末社
出世亀菊天満宮
鎌倉時代、時の帝後鳥羽上皇・亀菊(後の伊賀局)の信仰厚かった天満宮をこの地に勧請し 出世亀菊天満宮としてお祀りしている。
後祭神 菅原道真公 学問上達の神様

恵比須神社
本殿御祭神 素盞嗚之尊の御子孫 事代主尊を祭祀する。
福徳の神 商売繁盛の神として信仰厚い神
三社神社(住吉大神、春日大神、愛宕大神)
稲荷社(倉稲魂神)
所在地
〒561-0835
大阪府豊中市庄本町1-2-4
電話番号
TEL 06-6332-3110
FAX番号
FAX 06-6332-3207
アクセス
阪急バス上津島線庄本停西へ100m 駐車場あり(無料)
伝説と歴史
鯉伝説
二つの伝説がある。一つは遠き神代のころ、御祭神、素盞嗚之尊が高天原より鯉に乗って神崎の水門を経て当荘に御降臨されたが、お乗りになった鯉はここで力尽きて死んでしまった。
もう一つの伝説は
椋橋荘は猪名川と神崎川が合流する地点で交通の要所でもあった。村人は橋を架けることを望んだが、水量豊富で流れも速く、なかなか橋を架けられなかった。
奈良時代、諸国を巡遊して池堤の設置、寺院の建立、架橋などをしていた僧行基がこの地を訪れた時、村人の困っている様子をみて架橋工事を行ったがうまくいかなかった。困り果てた行基が椋橋総社にお祈りすると、どこからともなく大量の鯉が集まってきて魚橋を作ったので、その背中に乗って架橋を終えることができた。行基は村人に、鯉は神様の使いである、以後鯉を捕ったり、食べることを禁じた。
この風習は現在でも続けられ、椋橋総社の氏子及び旧氏子(尼崎市戸の内)の人々は、鯉を食べるとお腹が痛くなると言い伝えられ、鯉を食べない。



拝殿正面軒下の鯉の彫刻
鯉塚
鯉モニュメント
神前(崎)松原の由来
拝殿前に神前松原遺跡の石碑がある。「摂津国風土記逸文」に、昔、神功皇后が新羅を討つために筑紫に行こうとして神々を川辺郡の神前松原に集いてこれを祭り、加護を祈ったと。また別に「住吉大社神代記」には、神功皇后が熊襲を討つときに諸神を集めて祈ろうとしたが、神々の集まるのが遅いために、神前審神浜を住吉の神に寄進して神々の集まることを祈った、とある。「神代記」には浜の四至を「東を限る江尻、南を限る川、西を限る為奈川、北を限る公田」と記している。これによるとこの浜は現在の神崎の地ではなく、この庄本になる。
村人伝説によれば、当社は往古、松の大樹多数あって旅人の方角の目印となっていたという。また、この付近の総称にて往古より神前椋橋の荘総社と称し、源平時代に至るまで神崎の港より諸人参拝があったという。そして「神崎村」は江戸中期まで当社の氏地であった。

承久の乱(承久三年、1221年)ゆかりの地
この地域には鎌倉時代、椋橋荘という荘園があった。
椋橋荘は猪名川を境に東西に別れ、東椋橋荘(豊中市南部)、西椋橋荘(尼崎市東部)の二十四カ村からなり、庄本(荘本)はその中心になる村であった。
この地域は猪名川のたびたびの洪水による肥沃な土地であり、船によって人や物が瀬戸内海から神崎川、淀川を経て京都へ、また、猪名川上流の池田、多田方面からも物資が運ばれる水運の中継点であり、権力者にとって重要な土地であった。
時の帝後鳥羽上皇はこの椋橋荘を、寵愛していた白拍子亀菊(後の伊賀局)に与えていた。
鎌倉幕府成立後、荘園にも置かれることになった地頭(幕府役人)との間で諍いを生じ、後鳥羽上皇は時の執権北条義時に椋橋荘の地頭職の罷免を要求した。幕府は地頭職の罷免は幕府の根本に触れるとして断固拒否した。当時、朝廷、幕府間に緊張関係があったが、このことが最大の原因となって朝廷と幕府が争う承久の乱がおこった。(東鑑、承久記)
後鳥羽上皇・亀菊の信仰厚かった天満宮をこの地に勧請し出世亀菊天満宮としてお祀りしている。
その他
縁結びの木
クスノキとクロガネモチの合体木で、恋愛成就、縁結び、夫婦円満の木として崇められています。

震災記念柱
これより200m南にあった元禄10年建立の大鳥居(高さ5.7m 巾7.2m)は平成7年1月17日に発生した阪神淡路大震災により倒壊した。
この石柱は大鳥居の東側の一部である。

祭典日
年中行事

初宮詣り
赤ちゃんのご出世と健康のために是非氏神様へ初参りをお忘れなく
七五三詣り
心身の発育を祈るために7歳、5歳、3歳のお子さまは氏神様に参拝しましょう。
地鎮祭、起工式、定礎式、上棟式、竣工式、開所式、家敷清祓、除病祈祷、工事安全祈願、安産祈願、家内安全祈祷、厄年厄祓、交通安全祈願、商売繁昌、入学祈願、その他各種清祓、祈祷執り行います。